年々ハイレベルになり、最高に面白い卓球全日本選手権。
ただ、そこには”変なおじさん”が居なかった。
そう、斎藤清が居なくなってしまったんだ。
私が卓球を始めた94年ごろ、すでに斎藤清は過去の存在となっていた。
バックハンドという致命的な脆弱性を孕んだ「日本式ペン」に固執しすぎた日本は、極度に低迷。1991年の千葉大会、自国大会の男子団体で、ベスト8にも入れない13位と史上最悪の結果に。
その後、松下浩二・渋谷浩、岩崎清信、今枝一郎などシェーク選手が台頭し、日本式ペンホルダーがトップランカーから急速に姿を消した(まだ数的には居たけど、何せ勝てないので上位にはどんどん居なくなる)。
その、日本がシェーク一辺倒になる直前。1992年全日本選手権で、30歳の斎藤清は岩崎清信を下し、史上最多の8度目の優勝とともに、片面日本式ペン選手として最後の優勝者となった。そして、この後に93年世界選手権に出場、当時のヨーロッパ王者だったアペルグレンを下し、ラン決でキムテクスにボロ負けした所までが、斎藤がスターダムに立っていた最後となった。
いわば斎藤は日本最後の(片面)日ペンのスーパースターだった。
彼が最も輝いたのは1983年の世界選手権東京大会。ラバーの同色OK時代によるアンチラバー戦術で当時無類の強さを誇った中国の至宝・蔡振華を追い詰め、「悲劇のエッジボール」で試合の流れが変わらなければ、メダルに届いていた。
ただし全盛はそこまで。あとは片面ペンドラの最大の弱点であるバックを執拗に狙われ、そこから世界大会で目立った活躍はできなくなった。それでも、ソウル五輪で、銀メダリストの金椅沢、後の世界王者パーソンに肉薄しグループリーグ突破に手をかけた。
さらに1989年アジアカップでは当時中国最強を誇った馬文革を倒し優勝するなど、当時すでに弱体化が叫ばれた卓球ニッポンの意地を一身に背負った存在として活躍、全日本選手権8度の最多記録を打ち立てた、正真正銘の日本のヒーローだった。
時系列は私が卓球をはじめた94年に戻る。その時バイブルだったのが、その斎藤が著した「斎藤清の楽しい卓球」だった。特に「斉藤選手は中学時代に何をしたか?」に重点が置かれ、中学生にとっては「学校の限られた練習時間で何をすれば良い?」を考えやすい本だった。
斎藤がこれを書いたのはキャリア晩年。彼が最後に書いていた「私はもう年齢的にもうチャンスは無いかも知れません…でも皆さんには間違いなくチャンスがあります!」という、キャリアを終わらざるを得なくなった者の悔しさと若者へのエールを今も思い出す。
また、当時は卓球レポートで「斎藤清物語」という見開き2ページ(後に4ページに)のカラー漫画も連載されていた。その漫画の中の斎藤清は、なぜかポニーテールの少女漫画風イケメンで登場し、強敵をマットに沈めるが如く獅子奮迅の活躍を魅せていた。そう、当時の中学生たちにとって、斎藤は「想像の中で駆け回るスーパースター」だったのだ。
しかし僕らは、肝心の斎藤清のプレーを観ることは出来なかった。
当時、卓球映像は致命的に不足していて、セルビデオも高くて中学生には手が出ず、卓球レポートの図解を観て、勝手に動きを想像するしか出来なかった。
唯一の例外は全日本選手権中継か、NHKBSでこっそり1時間くらいやる、世界選手権の超ダイジェスト版VTRくらい。すでに斎藤は全日本選手権で優勝とは程遠い存在となっていて、観るチャンスは無かった。
いつか斎藤のプレーをこの目で見たい。それが叶ったのはずっと後のYoutube時代だった。
100勝をかけて闘う斎藤のプレーがYoutubeにアップされたのだ。
見たいような見たくないような、複雑な想いを抱えながら、見えたのは・・・「変なおじさん」の姿だった。
サーブにつく所から、妙に動きが野暮ったい。モビルスーツのガンタンクを思わせるよう。豪快なドライブというよりは、帳尻を合わせたようなドライブ。
同時にプレーを見てすぐ、ああ、これは時代遅れだ。と思った。明らかにペンのデメリットがメリットを上回り、相殺できてない感じ。それにどうにか対応する姿も一際ファニー。
なかなか珍妙な動きを繰り返す、165cmで豆タンク型のずんぐりむっくり体型の中年男性。まるで卓球というスポーツのイメージを全て背負ったような、戦前の山男を思わせるような風体の男だった。
この姿を乱暴に言ってしまうのであれば、志村けん氏の「変なおじさん」の動きにも似ていた。
それにややショックを受けた私は、若い頃のプレーも観た。だが全体的な印象は変わらなかった。若い時でも妙に老けているようなその顔。そして豆タンクすぎる肉体。プレーも、この時からすでに豪快より老獪という形。そこにモテ要素は存在しなかった。
ただ、すぐにそのショックは解け、斎藤のプレーを色々観てしまった。
まず、卓球ってとにかく特徴のある選手を見ているのが楽しいのだ。陳衛星のファニーな動きに目が離せなくなるように、ドラえもんのような肉体で強烈なドライブも無く、上手さで勝ち抜けていく斎藤のプレーに、気が付くと惹かれていった。
そして男は時代遅れの武器で闘う者に惹かれてしまうもの。新選組があれだけ人気が出たのは、すでに抜刀が時代遅れになった幕末の世界で、「刀」で相手に向かっていった姿なのだ。そして鳥羽・伏見の戦いでそのまま新政府軍の銃弾の前に崩れ落ちた、儚い姿がファイティングスピリットを大いに感化させてくれる。新選組の姿が斎藤に重なるのだ。
シェークという拳銃に、片面ペンという刀がどれだけ通用するか…それでも闘った。
低迷しきった卓球ニッポンの最後の砦として、戦型の圧倒的不利を顧みずに守ってきた、斎藤の生き様が滲み出る斎藤のプレー。それをずっと観たくなった。
例えばとても仲良くなった文通相手の女性に会って、例えブスでも「騙された!」とはそんなに思わないように、斎藤清がいくらダサくても、斎藤の試合をずっと観ていたい、せめて1年に1回の全日本選手権だけでも。そう強く思った。
でも2013年に、斎藤は全日本に出るのをやめた。「県予選に出たら通るチャンスもあるかもしれないけど、若い選手たちの枠をひとつ減らしてまで、全日本に出るつもりはありません。」という言葉を残し、こらえ切れない涙とともに最後の表舞台を去った。
斎藤はあまり指導者として成功もしなかった。指導者としてはそこまで良い噂も聞かなかった。でも、それで良いのだ。斎藤は卓球選手として天才だったのだ。何かのボタンの掛け違いが無ければ、世界チャンピオンになれたかもしれない、数少ない男だったのだ。
ワルドナーがまだ引退していないように、その2コ上の斎藤も、もうちょっと全日本出場をしていて欲しかったなぁ。
そんな斎藤清が居なくなった全日本で、とうとう水谷隼が、斎藤の全日本選手権8度優勝記録に並ぼうとしている。
感動しました(大泣)
94年というと、自分が生まれた年ですね~。自分はハンドソウを使ってるから、時代遅れというよりは時代錯誤かな(笑)このブログ記事の言葉を借りるなら、自分は「変なおじさん」ではなく「変な子供」になりそうです(身長が155㎝しかない)。
凄く嬉しいです、ありがとうございます。
ハンドソウはいつでもマイノリティな存在でしたから、片面日ペンと比べるのは少し別かもしれませんが笑、安全策で皆シェーク裏裏を選択する中で、戦型からして大勝負なハンドソウを選択するのはカッコ良いと思いますね。メリットを活かして頑張って闘ってみて下さいね
私は斉藤さんと同じ年齢で、彼は正に僕らの時代のアイドルでした。中2で全中で立川中の荻野選手(カットマンで後に熊谷商業で斉藤さんとチームメイトになりIH2位、勿論1位は斉藤さん)に負けましたが豪快なドライブで注目を浴びたのが全国デビュー。当時ユニフォームの襟が大きかったのでドライブを打った時に襟が頬にぶっつかる写真が良く出ていて、そのスイングの豪快さに驚いたものです。
高校2年のJAPANOPENの当時の日本のトップ、小野誠司さんとセットオールの試合をして大物ぶりを発揮しました(今みたいに年下が上の人に勝つのは珍しい時代でした)。
高校3年でIH3冠王、大学に入って、割とすぐ当時のチャンプ前原さんなどをあっさり抜いて一気に日本のトップに躍り出ました。
小野さんが79年にタイトルを取ってから世界で勝てなくなりましたが、国内では斉藤さんは、その中でも当時としては割と進んだペンドラだったと思います。
友人が東京に行って彼の練習ぶりを見て、他のペンドラと全然違う!ボール3つ位打球点が高い!と興奮気味に教えてくれたのを憶えています。
ワルドナーも記憶に残る日本選手は?という質問に「斉藤清」と答えています。フォア1本であれだけの成績を残したのは凄い!!と。
ちょっと前まで、WTTCの記事を見ると、すぐ日本選手全滅という残念な状態でしたが最近は、JTTA、各地のコーチ、選手の努力のおかげで、随分強くなりました。
私も子供たちに教えていた時代があって、みんなで「シェークでバックハンドを振るにはどうしたらいいか」なんて、今の人から見たら笑われるような議論を真面目にしてました。
ドラゴン坂本君が表れてから日本は変わりましたね。彼がアミジッチ氏にコーチングを受けにドイツに渡ってから、岸川、水谷と続き、今ではダブルス優勝の吉田君など、当たり前のように海外で修行する人がいて、日本人はBHが弱いという記事も見なくなりました。
斉藤さんのプレイを今見ると、同じ時代に過ごした私でも、苦しいなぁと思いますが、今の時代の選手の先進的なプレイがあるのも、当時の反省を踏まえたものだと私は思っています。
どうもありがとうございます。許ッシンさんのお話はいつも勉強になります。
荻野選手との闘いは、「斎藤清の楽しい卓球」でも「斎藤清物語」でも象徴的に書かれていたシーンでした。当時のスターのカットマンで、彼を倒した事が全中優勝に繋がり、斎藤清が「あれが今日を作った」と言っていましたね。
確かに、アジアカップを獲った秘密兵器と言われた「水平打法」など、ペンドラとしては意欲的な新技術を取り入れる方だったようですね。打球点の高さもそれが表れていたのでしょうね。
ただ、強烈に回転のかかったドライブに対してバックハンドを返すのに、バックの角度を出すために少しジャンプしなければいけなかったりと、確かに苦しさも目立ちます。それらの反省の上に今の卓球ニッポンの繁栄(まだまだ課題は多いですが)が生かされていると嬉しいですね。
ありがとうございます。
斉藤さんは高校時代はダーカーだったと思います。当時のダーカーは裏にコルクがありませんでした。IHでギャラリーから確認。(たぶん)
大学生になってタマス。清モデルって知ってますか?サイプレスのちょっと大きい版です(昔は専門ショップでも清モデルとして置いていた所も在る筈です)
先のコメントで出ていたアームストロングは、斉藤さんと決勝を争った糠塚さんが高校時代に使っていたんですよ。光ソフトラバー!!広告は「シルバースポンジが生む離れ技」。
卓球王国で売っている「卓球ジャーナル」電子版辺りに広告が出ていると思います。
日本卓球協会で1983年の東京WTTCの後に「これからの卓球」みたいな映画が出たのを知ってますか?斉藤さんの全盛期が映ってます。
参考までにダーカーは「なぜ、一流選手はダーカーを選ぶのか」です(少し違うかもしれませんがこんな感じです)
斉藤さんのバックサーブどう思いますか?実は私の学校のエースが対戦したことがあり、
長く来たから回り込んでドライブを打ったら、ボロッと下に落ちた!と言ってました。
ちなみに彼は当時の選手としては高校ランキングクラスだったと思います。凄く切れていると言ってました。
斉藤さんは高校までダーカーだったんですね。名工との誉れ高き逸品と話は聞きます。
サイプレスは僕の代の時まで本当に普及していたので知っていますが、清モデルはわからないですね。今持っていると価値があるかも知れませんね。あと糠塚さんも使っていたとは、アームストロングは確実に今よりシェアはあったようですね。
あとバックサーブは傍目から見ても半端無く切れていそうな気がしますね。バックサーブなのでインパクトは幾分見易そうですが、わかっていても手を焼きそうな雰囲気がガンガン出ている感じです。戦い方的に今見ると合理的でない部分もあるだけで、斉藤さんの一つ一つの技術自体は凄いのだと思います。
バックサーブですね笑。友だちが試合をしたことがあって、長く来たから回り込んでドライブを打ったら持ち上がらなかったと言ってました。友だちも当時のレベルは低くなかったんですよ。IHランクレベルです。
もう一つ。フットワークの相手を頼まれた人が、サーブを出したらスマッシュみたいなボールが来て練習相手にならなかったという話。ただ繋いでフットワークをしているのではなく、速いボールで速く動いていたんですね。
こんな逸話楽しいですよね。
逸話続きで最後。69年世界チャンピオン、伊藤繁雄さんはフォアに飛び付いた後、バックにボールが来て速く動きすぎて、行き過ぎてしまってお尻にボールが当たってしまった!という話を聞いた事があります。終わり
「ドライブ、スマッシュなどのスピードボールは足より早い」という大原則に逆らってプレーするのですから、それだけ恐ろしく鍛えられたフットワークなんでしょうね。僕らだと限界を見て両ハンドを鍛えようとしますが、フォアハンド偏重時代ならではの血の涙の結晶を感じます。用具と戦型の変遷とそれに全力で逆らおうとする人々、それも卓球の面白さですね。
自分も日ペンドライブマンでした。
ちょうど斎藤選手が最後の全日本チャンピオンになったころくらいまで卓球やってました。
卓球を辞めて数年後、テレビのニュースで若い選手に振り回されてヒーコラしてる斎藤選手を観て、失礼ながら、ちょっとカッコ悪いな、と思っていました。
でもその後、何かの記事で読んだのですが…
斎藤選手は奥様(嶋内選手。元日本チャンピオンだったと記憶しているのですが…)を早くに亡くしておられます。奥様が亡くなられた後、生前に斎藤選手の全日本の通算100勝を楽しみにしていたことを知り、もう一度カムバックしたのです。
ああ、だからあの人、カッコ悪くても必死にボールに食らいついてたんだって、本屋で号泣してしまったことを覚えています。
リオ五輪後の卓球フィーバーの折にふっと、そういえば通算100勝できたのかなーと思って検索してこの記事にたどりつきました。
wikipediaに通算101勝と書いてあったのを見て、また少し泣きました。
読んで頂いてありがとうございます。
嶋内よし子さんは2度全日本選手権を制していますね。あと、混合ダブルスで珍しく夫妻優勝、しかも連覇を決めています。
選手として第一線を退いてからはちょっと不遇だった斎藤さんにとって、全日本100勝は、奥さんへ送る、どうしても譲れないものだったのかも知れませんね。
斎藤清選手が全日本1、2回戦を、ちょっと不格好なプレーでも、若手選手の両ハンドの雨あられを浴びながらも、いま出来る全てを振り絞って、勝ち切って行く姿には心が打たれました。
1983年の世界大会で斎藤選手は優勝できる力がありました。
当時は世界大会で団体戦とシングルが行われ、日本チームはエース斎藤に頼り団体戦フル出場。
蔡選手と対戦する前夜には疲労困憊で左肩と腰が悲鳴をあげていました。
たらればですが
協会が斎藤選手をシングルに専念させていたら結果は違ったと思います。
コメントありがとうございます。そして承認&返信が遅くなって申し訳ないです。
当時って団体戦だと今より何度も出なくてはいけなかったルールですよね。だとすれば、負担はかなりのものになっていたかも知れませんね。
特にフォアハンドで動き回るスタイルだと、どうしてもケガが付きまといますからね。最近の許シンがケガに悩まされることが多いように。
当時の映像は圧倒的に不足しているので、齊藤が輝いた伝説の1983大会の様子をぜひ動画で観てみたいものです。